ルーマニアから歩いてウクライナに行った話
ルーマニアを旅行していた時の話です。
ルーマニアの第3都市クルジュ=ナポカを拠点に、汚染水に沈んだジャマナという村を見に行ったり、
地下120mにある遊園地で手漕ぎボートや観覧車に乗ったりしてました。
昔は岩塩坑だった場所。すごくSFチックな雰囲気です。
内部はひんやりとしていて肌寒いです。
そんなこんなでクルジュ=ナポカを満喫し、次はウクライナに行く予定でした。
ここでひとつ問題発生。
クルジュ=ナポカ、結構大きい都市のくせにウクライナに直で行ける電車 or バスがなかったのです。
インターネットで「ルーマニアからウクライナ」みたいな感じで旅行記を漁ってみましたが、出てくるのは首都ブカレストから行ったという情報のみ。
しかし僕はクルジュ=ナポカに来るまでにブカレストから約10時間オンボロ電車に揺られるという経験をしていて、ふつーにしんどかったのであれを繰り返すのは避けたいところ。
ルーマニアの電車はめちゃくちゃ遅いです。遅いものだと時速17km、それ以外でも大体時速30km~50kmくらいで走ってるらしいです。去年書かれた下の記事では、「ルーマニアの電車、スクーターより遅いやんけ!」と評されてます。
https://www.romania-insider.com/freight-trains-slow-romania
そういう訳で、なんとしてもブカレストに戻ることなくウクライナに行けるルートを考えつかなければいけません。電車もない、バスもない、となると・・・・・
そう、徒歩です。
ここでの問題はルーマニアからウクライナへ国境を超えて運行する公共交通手段がないこと。ルーマニア国内・ウクライナ国内それぞれの移動は、どれだけ田舎でもバスの1本くらいは走ってるので問題なさそうです。つまりネックとなっているのは国境超えのみ。
ここで地図を見てみます。
国境に最も近くてそこそこ大きそうなSighetu Marmatiei (シゲトゥマルマツィエイ)という町を見つけました。クルジュ=ナポカからもバスが出ているので、ここまでは辿り着けそうです。
次に国境を歩いて超えれそうかどうか。
ルーマニアとウクライナを隔てる川がありますが、そこに橋がかかっていて、その先の町に駅があるのを発見。駅名は全く読めないですが、とりあえずここから電車で大きい都市に移動できそうです。
駅についているレビューを見てみると、"End of the Ukrainian Railways"と書いてあります。最果ての町にある辺鄙な駅ですが、僕にとってはここが始まりです。
こちらのレビューは見なかったことにします。
国境沿いの町までバスで行けること、国境を歩いて超えれそうなこと、そこから電車で移動できそうなこと、必要な情報は全て出揃いました。
思いついたらすぐ出発です。宿の予約もしないまま(これのせいで後にめちゃくちゃ後悔しました)バスに乗り、ルーマニア最果ての町へ向かいます。
こういう旅行記とかには載っていないルートを自分で開拓する瞬間が、すごく「旅」って感じがして好きです。
夕方頃にSighetu Marmatieiに到着。まずは早急に宿を見つけなくてはいけません。
そんな大きい町ではないし、宿が満室になるなんてことはないだろう、と余裕をかましていましたが、これが大きな間違いでした。
宿から宿へと練り歩き、空室がないかを尋ねながら歩き続けるうちにあたりはすっかり暗くなりました。もう野宿か夜通し歩き続けるしかないか・・・と、ほぼ諦めていたところ、なんと奇跡的に空室のある宿を見つけました。
チェックインしたのは夜の10時。ご飯も食べずに宿を探していたので、この宿に巡り合えたときの安堵感はハンパなかったです。
この宿の存在には本当に救われたので記事内で紹介したいんですが、写真も撮ってないしホテルの名前も場所も忘れてしまいました。
翌朝。
ウクライナ側の電車の時刻表が分からないので、とりあえず朝早いうちに出発します。国境となっている橋に到着すると、地元の人が何人か徒歩でパスポートコントロールを通過していました。しかしやはり「ルーマニアの辺境の町で徒歩で国境を超えるアジア人旅行者」は珍しいらしく、奇異の視線を感じます。
日本パスポートのパワーでパスポートコントロールは問題なく通過します。
そしていよいよウクライナ入国です。
この橋を渡れば、キリル文字が溢れる異国の地です。徒歩で国境を超える高揚感たるや。
そのまま少し歩いたらウクライナ側の町、Solotvynoに到着。
とりあえずATMでウクライナの通貨フリヴニャを入手し、駅に向かいます。
Google Mapのレビューに書いてあった通り、ボロボロで何もない駅ですが、一応駅員のおばちゃんがいました。しかし英語を話せないらしく何を言ってるか分かりません。地図を見せながら僕が行きたいLvivという町を指さします。すると紙に電車がくる時間を書いてくれました。
あんまり覚えてませんが、17:00過ぎくらい発で朝5時くらい着の夜行電車だった気がします。電車の時間まで、お昼を食べたりカフェでぼーっとして時間を潰します。
おばちゃんが紙に書いてくれた時刻に駅に行くと、「マジで?」と言いたくなるくらいボロい電車が止まってました。
恐らく社会主義の時代からずっと走ってるであろう電車。
当時はクソ暑い8月ですが、もちろん冷房とかもついていません。
「マジか・・・」と思っているうちに電車は走り出します。
スーパーで買っておいた晩御飯をもそもそと食べて、ぼーっとしていたら夜になりました。
僕のベッドは2段あるうちの上段でした。
寝台列車に乗るの自体初めてだったんですけど、上段で寝てると寝返りで下に落ちそうでめっちゃ怖くないですか?
狭いし固いし落ちそうで怖いしで、ぜんぜん寝る気になりませんでした。
そして車内が死ぬほど暑い。
そんなこんなで、涼しい空気を求めて空いている普通のテーブル席に休憩しに行きました。
開けっ放しの窓から風が入ってきてかなり快適です。そして車窓からは月明かりに照らされたウクライナの田舎の風景が見えてとてもキレイでした。
ちなみにこのテーブル席、テーブルを挟んで2人が座れるようになってます。
僕が車窓から異国の風景を眺めてエモい気分に浸っていると、知らないおっちゃんが向かいに座ってきました。
「暑くて寝れねーよな」と声をかけられ、どこから来たのかとか、なんでウクライナに旅行にきたのか、とか色々な会話を交わしました。
さらにおっちゃんは給湯室から紅茶を持ってきてくれて、「まぁちょっと話そうや」みたいな感じで、僕の向かいでくつろぎ始めます。
会話の内容はあんまり覚えてないですけど、
僕が「大都市だけじゃなくウクライナの田舎の方にも行きたいな~」と話したら、
「ウクライナの田舎はまだまだ貧しいけど、人も町も素晴らしいよ」と言ってくれたのが印象に残ってます。この発言自体は別によく言われるような文言ですが、信じられないくらいボロボロの電車に乗りながら、おっちゃんとの会話を楽しんでる今この瞬間に、まさにその通りだなと感じました。
おっちゃんとの会話の後、ベットに戻ってめちゃくちゃ質の悪い睡眠をとっているうちに、外が明るくなってきました。
朝5時。バキバキの体でLvivの駅に到着。
クルジュ=ナポカからここに来るまで、たった2晩ですがとてもとても長い道のりでした。
ウクライナに着いてからのことも、そのうち書くかもしれませんし書かないかもしれません。(あんまり特筆することが起こらなかったので)
旧ユーゴスラビアにあるSpomenik(スポメニック)について
旧ユーゴスラビアの国々に点在する、Spomenik(スポメニック)と呼ばれる独特な形をしたモニュメントがあります。
サイズ・形ともに非常にバリエーションに富んでいて、山奥に佇む巨大なものから、街中に溶け込む小さいものまで多種多様なSpomenikが存在します。
Spomenikに関するデータベースで色んな写真を見れるんですけど、特に有名なやつと個人的に形が好みのやつをいくつか紹介します。
Podgaric(クロアチア)
何だか近未来チックな形をしていて、Alan WalkerのDarksideのMVに使われたりしてます。
高さ19mの巨大Spomenik。間に立ったら何かが起こりそう。
Ostra(セルビア)
近くに建物があると、よりSpomenikの奇異性が際立ちます。
Krusevo(北マケドニア)
出窓それぞれに色の異なるステンドグラスがついているオシャレSpomenik。
まだまだあるんですけど、こんな感じで色んな種類があって面白いです。
そもそもSpomenikとは何なのか?
Spomenikという単語はセルボ=クロアチア語及びスロベニア語でMonument(モニュメント)を意味します。
Spomenikが建設されたのは1950年~1990年代で、主な目的はユーゴスラビアにおけるWW IIの枢軸国による占領や、チトー率いる人民解放軍の活躍を歴史に残すためでした。
加えて、WW IIが終わり社会主義体制が確立したユーゴスラビアでは、「自国のイデオロギーを象徴するような新しくてイケてる何かを作りたくね?」という流れになり、新しいSpomenikがどんどん作られることになりました。
つまり、Spomenikには戦争記念碑としての意味を持つものやユーゴ建国時の「イケイケムード」(≒ Optimism) を象徴するものなどがあり、形と同様にそれぞれのSpomenikが持つ意味も多種多様なのです。
ユーゴスラビア解体に伴い、多くのSpomenikが放棄もしくは破壊されてしまいました。
正確な数は分かっていないものの、当時は2万~4万個のSpomenikが建設されたと言われています。
いくつのSpomenikが現存しているのかはまだ調査中みたいですけど、とりあえずいま見つかっているものは後述するデータベースに掲載されています。
多様な意味合いを持つという特性上、今でも「Spomenikはユーゴスラビア紛争を思い出させる負の遺産だ」派や「Spomenikはファシズムへの勝利を象徴する遺産だ」派がいたりして、管理しようにも何かと扱いにくいモニュメントになっているようです。
しかし近年Spomenikに興味を示す観光客が増えてきたことを受けて、Spomenikを観光資源として整備しようという動きも見えてきています。
僕自身も、Spomenikのひとつひとつがユニークな形と意味合いを持つという点を面白いと感じたので、ぜひ知ってもらおうと思って今回の記事を書くに至りました。
街中にふつうにあったりするんで、旧ユーゴを訪れる機会があればぜひ目を向けてみると旅行がもっと面白くなると思います。何も知らずに見るとただの近代アートですけど、背景を知っているとユーゴの歴史に思いを馳せることができます。
山奥にあってアクセスしづらいものも多いですが、巨大かつヘンテコな形をしたSpomenikは、なかなかインスタ映えなんじゃないでしょうか。ただくれぐれもその歴史的背景にリスペクトは持ってほしいです。
いつか「Spomenik巡りの旅」みたいなマニアックな旅をしてみたいです。
※さいごに
https://www.spomenikdatabase.org/
から引用しました。Spomenikに関するデータベースサイトで、本とかも出版しているので興味があればぜひ覗いてみてください。現存するSpomenikの場所を地図で示してくれていたり、カテゴリーごとに写真を見れたりして非常に充実したサイトになってます。
サラエボで最高なカフェを見つけた話(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
「ユーゴスラビアには七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家が存在している。」
という言葉があって、旧ユーゴがあったバルカン半島はこの民族多様性に起因する民族間対立から、かつてはヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたりもしました。
そんなバルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下ボスニア)はボスニャク人、セルビア人、クロアチア人の3つの民族で構成されていて、異なる民族がそれぞれの宗教を持って混在しています。
民族間対立はこの国でも例外ではなく、最近までボスニャク人とセルビア人の衝突により起こったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が起こっていました。この紛争で起こったスレブレニツァの虐殺は、第二次世界大戦以降にヨーロッパで起こった最大のジェノサイド(大量虐殺)として認定されています。
そんな激動の歴史を歩んでいるボスニアですが、観光地としても非常に魅力的な国でもあります。ボスニアの首都Sarajevo(サラエボ)は、バルカンの観光名所であるドブロブニクやザグレブ、ベオグラードらを抑えてLonely Planetの世界の都市ランキングで43位にランクインしたこともあります。
そんなわけでサラエボに行こうと思って、ある日スロベニアのリュブリャナからサラエボ行きのバスを予約しました。リュブリャナからサラエボまではバスで約11時間。21時発の朝8時着の予定でした。
バスの運ちゃんの大健闘により、サラエボに着いたのはなんと朝5時前。こんな時間に降ろされても普通に迷惑です。まだ暗いし、店も開いてないし、もうちょっと寝たいし。
日が昇るのを待って街を散策します。街を歩いていても、所々に銃弾の跡があるのが目に入ります。
まずは歴史でも勉強しようかと思い、Gallery 11/07/95という写真展へ。ここでは内戦当時の写真・映像が展示されています。
当たり前なんですけど、内戦は25年前の出来事なので、もちろん映像などはカラー映像です。映像ではスナイパーによる銃撃を避けながら町に買い物に行く人々などが映されていました。ここに映っている人たちが今も普通に街で生活しているんだろうなと考えると、何とも言えない感覚です。
結構ショッキングな展示も多いんですけど、サラエボに来て内戦のことを知りたいと思ったならこのGallery 11/07/95と人道に対する罪と虐殺に関する博物館という場所に行くことをおすすめします。視覚的に内戦を理解するには最適な場所だと思います。
展示を見た後は、お昼を食べてカフェでコーヒーを飲みます。ちなみにこのカフェはタイトルにある最高なカフェではないです。
ボスニア料理にはチェヴァプチチとかブレクとかがあります。なかなか肉肉しいのですが、油っこくなくてすごく食べやすいです。安い物価で美味しいご飯が食べれるのもサラエボ含め東欧の魅力だと思います。
これはボスニアコーヒー。トルココーヒーがオスマン帝国占領時代にボスニアに定着したもの。
コーヒーを飲んだら旧市街散策。
鳩に襲撃されてる人がいました。
旧市街の街並み。京都っぽいとも言われる、他のヨーロッパの都市にはない独特な街並みです。
ヨーロッパにある、石畳と木造建築の町。
Eternal Flame(永遠の炎)という、サラエボがファシストから解放されたことを記念して灯された炎。永遠と名にあるものの、紛争中の石油不足で一度は火が消えてしまったそうです。ここでずっと暖をとってるおじさんがいました。
次の日はロープウェイで山へ。
ここに来たのは、サラエボオリンピックのボブスレー会場の廃墟を見るため。1984年のオリンピックで使われたこのボブスレートラックは、内戦時にはセルビア軍の大砲の設置場所となりました。
ボブスレートラックの上を歩いて下山します。
途中道を外れたところに、銃弾だらけの廃墟を見つけました。後で調べてみたらかつては天文台だったらしいです。サラエボは色んなところに廃墟があるので、いろいろ調べてみると面白いです。
その日の夜、宿の近くに気になるカフェを見つけたので入ってみました。
店の名前はZlatna Ribica。ボスニア語?で、意味は金魚です。
なぜか全然写真を撮っていないので、お店のFBページから拝借した写真で紹介します。
このお店、大通りから外れた路地にある、なかなか分かりにくい場所にひっそりと位置してます。ドアを開けてみるとほんとに別世界でした。
アンティーク調で統一された店内
店名の通り、金魚が飼われていました。
ワインとかを頼むと、金のゴブレットに入って出てきました。
見つけてから滞在中に数回来たこのお店、内装もさることながら、メニューもすごく美味しいです。ワインはセミスイートな感じですごく飲みやすかったし、カプチーノもシナモン風味だったりして一捻り入ってるメニューが多かった気がします。
このカフェに来るためにサラエボ再訪したいくらいです。
ボスニアヘルツェゴビナ、もちろんサラエボもまた行きたいし、サラエボとかモスタル以外のメジャーじゃない場所も掘り下げたいなぁと感じます。バルカン半島も、コソボやアルバニアとかまだまだ行ってない場所があるので、またいつか機会があればバルカン周遊旅行とかしたいです。
お店の情報
サハラ砂漠ツアーに無賃参加した話(モロッコ)
留学でヨーロッパに滞在しているという地の利を活かして、日本からだと遠くてなかなか行けないような所に足を延ばしたいと思いました。そうだ、サバクを見に行こう。
さっそくネットでツアーを予約して、モロッコ西部の都市マラケシュへ。
空港名の表記、上からアラビア語、ベルベル語、フランス語。こういう意味分かんない文字が出てくると異国感が増しますね。ちなみにめっちゃ深夜に着いたので空港で朝を待ちます・・・
早朝、ツアー会社の人たちが迎えに来ました。ツアー代はここで手渡しです。
ところが、僕が予約していたツアーの他の参加者に病欠者が続出でツアーの最低催行人数を満たさなくなったと告げられます。
かわりに、全く同じ旅程でツアーをしている他の会社のグループに入る形にしてくれないかと提案されました。聞くと、ツアー料金はいらないとのこと。2泊3日のツアー料金が浮いたのはかなり嬉しい。
こうして無賃のサハラ砂漠ツアーが始まりました。
サハラ砂漠から一番近い大都市がマラケシュですが、それでも砂漠まではなかなか遠いです。途中絶景や名所ポイントに立ち寄りつつも、基本はひたすらドライブです。
こんな感じの道がひたすら続きます。
車中にいる時間が結構長くてなかなか堪えるのですが、無賃で参加している身なので文句はありません。むしろ無賃の奴を乗せてこんな道運転してもらって、ありがとうございますという感じです。
途中立ち寄った町みたいなところ。詳細は忘れました。砂の町って、RPG感ありますね。
いかつい渓谷。川の水が冷たくて気持ちよかったです。
最初は野菜も摂れて嬉しいなぁと思ってたのですが、ツアー中タジン鍋ばっか出てくるので後半は「またかよ」という感じでした。しかし本来ツアー料金に含まれているご飯なので、僕にとってはタダ飯です。それだけでおいしく食べれちゃいます。
そんなこんなで1日目が終了し、2日目に突入。ちなみに泊まったホテルのWifiやら電源やらがぶっ壊れてましたけど、僕は無賃なので(以下略
2日目の午後、ついに砂漠が見えてきました。
ここで車からラクダに乗り換えます。
スタンバってるラクダたち。暑い中お疲れ様です。
どアップ。
日没前にキャンプ地に到着。
この後、ツアーで仲良くなったアルゼンチン人の兄ちゃんと夕日を見に砂丘を登りに行って、風で地形が変わったせいで帰り道が分からなくなって泣きそうになりながらなんとかキャンプ地まで生還しました。
夕食にまたタジン鍋(しかも砂嵐のせいでちょっとジャリジャリする)を食べます。
そして砂漠に夜がやってきました。
明るすぎる満月で星が見えません。
満点の星空とはいかなかったけれど、それでも十分砂漠の夜は綺麗でした。
聞こえるのは風の音だけ。「地球すげぇ」ってなります。
朝、寒さで起床。のんびり朝日を見ながら集合場所まで歩きます。
その後は朝食をとり、マラケシュを目指してまたひたすらドライブ。
帰り道にタイヤがバーストして荒野のど真ん中でみんなで協力してタイヤ交換をするというイベント付きです。
砂漠ってやっぱり過酷な環境だし、気づくと耳やポケットの中至るところが砂まみれになってたりします。
この旅の結果、無賃参加だと多少の過酷なことにも寛容になれると分かりました。
スロベニアで新聞に載った話
とある企画に参加してスロベニアの新聞に載ったことがあります。
企画の概要としては、スロベニア国内にある観光客があまり行かない田舎の町に行き外国人の視点から感想を寄稿するという感じでした。
旅行資金は新聞社から貰えるし、自分では思いつかないようなところに旅行に行けるので、参加しない理由はなかったです。
そんなこんなで新聞社のオフィスに行って、僕はZiri(ジリ/ スロベニア語だとŽiri)という町に行けと言い渡されました。
Ziriはスロベニアの首都リュブリャナから、40kmちょいくらい西に行ったところにあります。とりあえず宿を予約し、バスを乗り継いでZiriに向かいました。
お昼時にZiriに到着。
とりあえずお昼ご飯を食べるため、バス停のすぐ近くにあったレストランへ。
アジア人は珍しいのか、レストランのオーナーが話しかけてきました。
何も下調べせずに来ていたので、Ziriの町は何が有名なのかを訊ねてみると、店中に置いてある本やパンフレットをかき集めて持ってきてくれました。
レース刺繍とか靴作りがここら辺の有名産業らしいです。
せっかくならこの地方の名物料理を食べなよと言われたのでそれを注文することに。
ジリが位置するイドリア地方の名物、Idrijski Zlikrofi。ラビオリに似てるけど、中身は色々バリエーションがあるらしい。おいしかったです。
レストランを出るとき、さっきのオーナーがなんと瓶の地ビールをプレゼントしてくれました。「Ziriを楽しんでね」と見送ってくれて、幸先の良い旅のスタートになりました。
次はレストランを出てすぐのところにあるツーリストインフォメーションで情報収集。
むっちゃキモいマスコットキャラクターが出迎えてくれます。
ここでガイドを手配することにして、ついでに自転車も借りました。ここからはガイドのおばちゃんと自転車二人旅です。
まずは博物館を見に行くことに。靴作りの歴史とかの説明がありました。
展示を見ていると、偶然Ziriの町長に遭遇してすごく歓迎してもらいました。帰り際、この町長から立派な額縁に入ったレース刺繍をプレゼントとして貰いました。本日2品目のプレゼントです。
次はKržišnik Garden and Galleryという、植物園的な場所へ。
のどかな場所でした。手作りの紅茶とクッキーをごちそうになりました。
次はレース刺繍を作っているアーティストのお店へ。店内で色んな作品を見ていると、なんとここでもレース刺繍のプレゼントを貰ってしまいました。
また、帰り道にあった教会を見学していると、神父さんに遭遇。なにやら新しい神父さんの就任のお祝いの準備をしているらしく、今夜のお祝いパーティーに招待されてしまいました。120%部外者なのに。さらにはパーティー用のケーキをつまみ食いさせてくれました。
そんなこんなで本日の観光はここまでにして、宿に向かうことに。途中あったカフェで、ガイドのおばちゃんがケーキを奢ってくれました。お昼を食べたレストランでも食後にケーキを食べていたので、本日3つ目のケーキです。そんな甘党でもないので正直きつかったです。
なぜヨーロッパのケーキは、フォークがぶっ刺さった状態で出てくるのか
宿に到着。
ベッドもカーテンも真っ赤の、セクシーな部屋です。
今日貰ったものたち。こんなに良くしてもらって、素直に感激です。
そのあとは適当に町をサイクリングしました。
夜は星がむちゃくちゃキレイでした。
晩御飯は宿に併設されてるレストランで食べました。価格設定が良心的な域を超えてて、グラスワインが0.8€(約100円)でした。まるでサイゼリヤ。
ガイド料金も宿もご飯も全体的に安すぎるせいで、新聞社から貰ったお金が全然減りません。どうせ貰ったお金なので、普通なら絶対買わないような変なお土産マグネットとかも買っちゃいます。
次の日は、ユーゴスラビア時代の地下基地を見に行きました。
入口です。
中にはちょっとした展示に加えて、当日使われていた調理室やトイレがあり、あとはこんな感じの地下通路が数キロに渡って張り巡らされています。
外を監視するための小窓。信じられない話ですが、帰りは案内人のおっちゃんに言われるがまま、この小窓を潜り抜けて外に出ました。詰まるかと思った。
Ziriという小さい町でこれほど楽しい経験ができるとは期待していなかったし、こんなにたくさんの人に歓迎してもらって本当に思い出深い旅になりました。この企画に巡り会えたことに感謝です。
後日、スーパーに買い物に行ったら僕が載っている新聞が売られていました。
一面に僕の写真が載っているページがあり(恥ずかしすぎる)、ほか数ページに渡りこんな感じで僕の書いた感想のスロベニア語訳が掲載されていました。
有名な観光地に行くのも勿論楽しいし、時にはこういう田舎で地元の人と関わりながら旅するのもまた違った楽しさがあります。
汚染水に沈んだ村を見に行った話(ルーマニア)
コロナ対策で自宅待機になって暇すぎるのでブログ書いてみます。
ありがたい話ヨーロッパに1年間留学してた間、マジで一生分くらい旅行しました。
今後の人生であんなに色んな場所に行って色んな経験することなんてないだろうから、思い出としてぼちぼち書き留めていこうかなと。
とりあえずルーマニアのジャマナ(Geamana)という村に行った話。
ジャマナがあるのはルーマニアの第3都市クルジュ=ナポカから、南西に100kmくらい行ったところ。
このジャマナ村を衛星写真でみると、毒々しい色の湖に浸食されてるのが分かります。
ジャマナ村に何があったのかは、以下の動画(英語です)でざっくりと分かるかと。
補足して説明すると、
1977年、当時ルーマニアの大統領だった独裁者チャウシェスクは、Rosia Poieni銅山(衛星写真の左下)から出る工業廃水をジャマナ村が位置する渓谷に流して廃棄することを決定し、当時のジャマナの住民に立ち退き命令を出しました。
そんなムチャクチャな政策により、400世帯の住民が村から避難することを余儀なくされ、村は有毒なシアン化合物を含む廃水に飲み込まれてしまいました。比較的標高が高いところに住んでいた約20人の住人は、今もこの有毒な湖のそばに住み続けています。
(当時政府は避難する住民にジャマナ村から7km離れた場所に住居などを補助する約束をしていましたが、その約束は守られることなく住民は村から100km以上離れた場所に追いやられてしまいました。加えて政府は、村にあった墓地の移転も約束していましたが、こちらも守られることはなく、今も廃水の中に墓地が沈んでいます。)
参照: https://www.zmescience.com/other/feature-post/geamana-village-romania-toxic/
とこんな感じで、ジャマナ村は独裁者チャウシェスクの負の遺産とも言えます。
そんなジャマナ村への行き方なんですが、ネット上にはほとんど情報がなく、公共交通機関で行けるのか全く不明だったのでとりあえず一番近くの大都市クルジュ=ナポカで情報収集することにしました。(車レンタルして運転していけば一番簡単なんですけどね)
なんやかんやで、ジャマナ村の北にあるルプシャ(Lupsa, 衛星写真の上部)という村までバスに乗って行けと言われたので、とりあえずすぐにルプシャに民宿を予約して、その日のうちにルプシャに向かいました。
ルプシャに到着して民泊のおっちゃんにジャマナ湖に行きたいと告げると、明日の朝に車で送っていってくれるとのこと。ルプシャからジャマナまでの行き方については、「着いてから考えよう」の精神で来ていたのでこれはマジでありがたかったです。
ちなみにこの民宿、ルプシャではほぼ唯一くらいの宿泊施設で、到着した時には庭で猫と犬と馬とニワトリが歩いていました。たのしい。
推しです。人懐っこい黒猫。
なぜかトイレで赤ちゃん猫が飼われてました。トイレ中にむっちゃ鳴かれて、非常に落ち着かない。
その日の夜は高原にある小屋に連れて行ってもらい、おっちゃんと一緒に治安の悪い飲み会をしました。このおっちゃんはほぼルーマニア語しか話せないので、ルーマニア語の分からない僕はニコニコしながら無限に注がれる酒を飲むことでしかコミュニケーションがとれません。
ルーマニアの伝統的な蒸留酒ツイカ(Tuica)。アルコール度数は40度以上です。5リットルの容器に満タンに入ってます。
無限に注がれるツイカを飲み続けたこの日は、間違いなく人生で一番酔っ払いました。
写真を見返すとバーベキューをしてたっぽいんですが、全然覚えてなくて損した気分です。なんか色んなところに激突しながらシャワーを浴びに行った記憶はあります。
翌朝6時頃、一番酔っぱらっていた僕はなぜか一番早く起きました。二日酔いがないどころか異様に目覚めが良くて気分爽快でした。ツイカは添加物を使わずに家庭で作られる酒なので、悪酔いはせず健康に良いらしいです。
朝ごはんを食べて、出発前におっちゃんの奥さんがお弁当を持たせてくれました。ルーマニアのド田舎にある、本当にホスピタリティに溢れた宿に巡り合えました。
朝も早いうちに、おっちゃんの運転でいざジャマナへ出発です。
ルプシャからジャマナは山道を5kmほど上る道のり。行きはおっちゃんに送ってもらって、湖を見て、帰りは歩いてルプシャに戻って、その日のうちにバスでクルジュ=ナポカに戻る予定でした。
ジャマナに向かう途中、むちゃくちゃ強そうな野犬が車にタックルしてきたりして、帰り道が少し不安になりました。
湖の近くで降ろしてもらい、ここでおっちゃんとはサヨナラです。
おっちゃんが去り際に、
「湖の周りは歩ける距離だから、一周して散歩でもしてきなよ」
と言ってくれました。
ということで湖の周りを散歩することにして、歩き始めます。
歩いてすぐに湖のほとりに着きました。
こころなしか木々が元気ない。湖があるのは分かるけど、まだ時間が早いため朝靄がすごすぎて全貌が見えません。
靄が晴れるまでぼちぼち湖の周りを歩きます。
段々と湖の色が分かるようになってきました。赤い湖。この湖はToxic Lake(毒の湖)と呼ばれてたりもします。
かつてのジャマナ村には町のシンボル的な大きな教会が建ってました。村が廃水に沈んだ今、教会の屋根部分だけが有毒の湖から顔を出しています。
この下に約400世帯の村があったと考えると、ここに流し込まれた廃水は本当に大量です。
また、衛星写真を見て分かるように、湖には灰色っぽいところ、赤、水色に染まっているところの3部分があります。
上の写真を見て分かるように、灰色のところは泥状になってます。たぶん採掘場から出た泥が汚染水と混じって堆積してるんじゃないかな。
山道を歩き進んでいると、湖が灰色から赤色に変色している境目に差し掛かりました。水質も泥から液状に変わっています。
ちなみにこの湖の周りの道、ほんとに道なの?って思うくらい悪路です。
日の光があんまり届かないから、基本的に道がぐちゃぐちゃです。
頑張ってぐちゃぐちゃゾーンを避けながら歩いていたのですが、ぐちゃぐちゃゾーンが川のように道を分断してしまっているところもありました。そんなときにはそこらへんにある大きい石をぶん投げて飛び石を作ったり、丈夫な木の枝を敷いて橋っぽいものを作って渡って行きました。今思うとなんでそんなに頑張っていたのかほんとに謎です。
そんなこんなで湖が毒々しい赤色になってきました。
異様な光景に「うわー・・・」くらいしか感想が出ません。
ルーマニアをはじめ東欧諸国が民主化したのは歴史上つい最近のことです。
街にいるほとんどの人が民主化革命をリアルタイムで経験しています。さらにこのジャマナ湖のように、共産主義時代の負の遺産が生々しく残っています。経済的にもまだまだこれからの国々ですし、そんなふうに現在進行形の歴史の中に在る感じが、僕が東欧留学に惹かれた理由の一つでもあったりします。
湖がケミカルな水色になってきました。
地図を見ると、このあたりで大体湖半周くらい。
「まだ半分あるの??」
と思わずにはいられません。ここまで体感で結構な距離を歩いてます。
おっちゃんは「歩ける距離」と言っていたけど、もしかしておっちゃんは「歩ける」の基準がバグってるタイプの人間かもしれない。そんな不安を抱きながら、また歩き始めます。
ここからはヒッチハイクもできずに、特に面白いものもなく、ただひたすらに山道を歩き続けました。歩くのは好きだからいいんですけど、さすがにこれを「歩ける距離」とは言わない。
やっとこさ昼過ぎにルプシャに到着。朝おっちゃんに置き去りにされてから6時間は経っていました。あとで地図で確認してみたら、20km以上歩いてました。
そんなこんなで、ルーマニアの山奥で大冒険した話でした。
帰り道見つけた落書き。ルーマニア語で書かれてますが、"Do Not Forget Geamana. Save Rosia Montana(ジャマナを忘れるな。ロジアモンタナを救え。)"という意味です。ロジアモンタナはたぶんここらへんの地方の名称じゃないかな。